シンガポールの歴史【トマセック】
シンガポールに関する歴史的な記述で最も古いものは3世紀の中国の文献における、Pu-luo-chungであるそうです。
シュリーヴィジャヤ王国の勢力化の下、その後7世紀頃には漁村トマセック]として知られており、複数の航路が合流する
マレー半島の先端に位置するという地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたそうです。
マジャパヒト王国の宮廷詩人であったプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にマジャパヒト王国の服属国として
トマセックの名は見られ、少なくとも14世紀まではこの名で呼称されていた事が伺えます。また、同時期に書かれた中国の
旅行家汪大淵による旅行記『島夷誌略』にも「海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた」ことなどが記されています。
シンガポールの歴史【シンガプーラ】
14世紀末にサンスクリット語で「ライオンの町」を意味するシンガプラという名称が定着し、 現在のシンガポールの由来となっています。何故名称の変更が発生したかについては諸説あり、マジャパヒト王国の属国地の通称である説、 「シンガ」は寄港を意味し、単に寄港地という一般名称であったとする説、シュリーヴィジャヤ王国の王子が動物をライオンと 見間違えてつけたとする説などがありますが、シンガポールではスマトラより来訪したサン・ニラ・ウタマによって建設され、 この名がつけられたとする説を通説としているそうです。 この頃から、マジャパヒト王国とシャムの間でシンガプラを含めたマレー半島の覇権を巡る争いが激化し、 パレンバンの王子パレメスワラはこの争いに巻き込まれます。マジャパヒト王国の侵攻を逃れる為マレー半島を転々としていた パレメスワラは1402年、マラッカ王国を建国しシンガプラをその支配下に治めました。
シンガポールの歴史【ポルトガルの侵略】
マラッカ王国は1511年にポルトガルの侵攻を受け滅亡し、マラッカ王国の一部の商人や王族はシンガプラへと移っていきました。 しかしシンガプラ自体も1613年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の多くが虐殺され、 町は壊滅状態となりました。ポルトガルの侵略により壊滅しその後荒廃したシンガプラは、その後300年以上もの間歴史の表舞台から 姿を消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となりました。
シンガポールの歴史【イギリスによる植民地支配】
1819年1月、人口わずか150人のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。 ラッフルズはシンガプラの地理的重要性に着目し、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けました。 名称を英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めました。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に 割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなりました。 無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。 既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに1826年にシンガポールは海峡植民地に組み入れられ、 1832年にその首都と定められました。イギリスによる植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、 中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割にとどまらず、背後に存在する同じく ヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展します。 この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、 中国、インド、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となりました。
シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、これらのインドや中国からの労働力を背景に 経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続き、 20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。しかし統治者であるイギリスは、 イギリスからの独立運動を行おうとする在来住民に対して投獄、拷問、さらに処刑を行うなど徹底的にこれを取り締まり、 自治や言論の権利を奪われ、3級市民として扱われる悲惨な隷属状態が続くこととなりました。
シンガポールの歴史【日本よる占領】
またイギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ 要塞化していました。このため1941年に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による 攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した 2月15日に終わりました。これをシンガポールの戦いといいます。その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは 「昭南島」と改名されました。なお、昭南島とは「昭和の時代に得た南の島」の意とされています。軍政下の行政組織として 「昭南特別市」が設置され、初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命されました。その後イギリスや中華民国などの 連合国軍の支援を受けた中国系ゲリラにより、散発的なゲリラ活動が行われたことを受け、日本軍は山下奉文司令官名の「布告」を発行し、 反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、 対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害しました。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が続々と 発掘されたことにより、日本に血債の償いを求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、 1967年には「血債の塔」が完成しました。少なくとも数千人から2万人の中国系ゲリラとその支援者とされた 中国系住民が虐殺されたとされています。
国会は一院制で任期5年、解散あり。定数は選挙区選出83、非選挙区選出0-6、任命9。非選挙区選出は野党懐柔のために設けられた枠で、 選挙区選出枠以外は、憲法改正案、予算案の議決権を持ちません。選挙区は当初は単純小選挙区制でしたが、現在は小選挙区9、 定数5-6の集団選挙区14(75議席)となっています。集団選挙区は中選挙区制の一種だが、各政党は定数一杯の候補を立てる必要があり、 また少数民族を候補者に含める必要があります。有権者は政党に投票するため、無所属での立候補はできません。さらに、 最多得票を獲得した政党が議席を総取りする方式で、人民行動党が確実に勝つための工夫が凝らされています。 1997年総選挙ではチェンサン選挙区(定数5)で野党が45.2%の得票を集めましたが、政府はすかさずゲリマンダーを行い、 選挙区割りを変更、野党の得票を分散させたました。集団選挙区は野党が定数一杯の候補者を揃えられずに擁立を見送る選挙区が 多いようです。また、少数民族を候補に含めることは、表向きは少数民族の保護ですが、少数民族の候補を確保しにくい、野党の擁立を 妨害する作用もあります。そのため、2001年総選挙では人民行動党が過半数の55議席で無投票当選を決めています。 選挙のたびに小選挙区は削られ、集団選挙区の割合が増えています。また、集団選挙区の定数も3から4、そして現行の5-6と増やされています。 供託金は候補者1人当たり13000シンガポールドルで、供託金没収点は有効得票÷定数の8分の1。
シンガポールの歴史【イギリスの放棄とマレーシア連邦】
1945年に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる 植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなりました。 しかし、長年マレー半島において搾取を行い、残虐の限りをつくした宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、 その後も独立運動が続くことになりました。また、第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、 本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、 いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれました。
その結果1957年にマラヤ連邦が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任します。その後の1959年にシンガポールは イギリスの自治領となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦を結成します。 しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、 マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党の間で軋轢が激化。1964年には憲法で保障されている マレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、人種暴動が発生、死傷者が生じてしまいます。
シンガポールの歴史【分離独立と開発独裁】
1963年の選挙において、マレーシア政府与党のUMNOとシンガポールのPAPの間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されたことにより、 関係が悪化してしまいます。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユーの両首脳の合意の上、 1965年8月にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。
独立後に首相に就任したリー・クアンユーは、その後イギリス軍の撤退などを受けて失業率が悪化した上に、 天然資源に恵まれない事を受けて、東南アジアにおける通商の中心地に位置するシンガポールを発展させる「唯一の手段」と信じ、 一党独裁体制下での通商都市国家の道を選択します。いわゆる開発独裁体制の下で、職住近接型のジュロン工業団地の整備や、 「HDB」と呼ばれる分譲公営住宅の普及を急速に進め、教育水準の向上や関税廃止を背景にした外資系企業の積極的な誘致、 ハブ空港整備(チャンギ空港)、マナー管理などの徹底的な管理開発政策を進めました。 さらに1960年代後半に入ると中華人民共和国で文化大革命が起き、その余波を受けて治安が悪化したイギリスの植民地の 香港から多くの欧米企業がシンガポールに拠点を移し、1997年には同地が中華人民共和国に返還されたことで多くの欧米企業が アジア太平洋地区本社機能をシンガポールに移管したことなどが、これらの開発政策を資金面で後押しする結果を生み、 アジアでも有数の経済発展を成し遂げ、2007年に一人当たりGDPは3.5万ドルに達し、日本を追い越しアジアでトップの座につきました。

